千葉氏胤・満胤・兼胤

以前紹介した千葉市の来迎寺に供養塔がある千葉氏胤(1337〜1365)は貞胤の子。貞胤が京都に在住していたときに生まれた子で、京都で育てられました。そのためか京文化への憧憬が深く、和歌にも精通していたといいます。
観応2年(1351)、父の病死により家督を継承。千葉氏はすでに足利将軍家に帰属し北朝方として活躍しています。氏胤が家督を継いだ時期はちょうど将軍足利尊氏と弟の直義が激しい勢力争いを繰り広げた観応の擾乱の真っ最中。氏胤は尊氏側につき関東に戻り、その勝利に貢献、さらにこの争いに乗じて勢力挽回をはかった南朝方をも打ち破ります。
その後は関東にとどまり室町幕府の鎌倉府の守護の任についたということです。
しかしその後は、千葉氏の関東での勢力拡大をおそれた鎌倉府との間で、上総国の守護職をめぐっての確執が幾度となくあった模様です。

以下、さらっといきます。
氏胤の子が千葉満胤(1360〜1426)。父氏胤が29歳の若さで死去したため、わずか6歳で家督を継ぎます。
成人後の応永23年(1416)、鎌倉公方足利持氏に対し執事の上杉禅秀が反乱を起こした禅秀の乱では、子の兼胤の舅であった禅秀につきますが形勢の不利を悟り持氏に降伏しました。千葉氏の所領は安堵されました。

満胤の子、千葉兼胤(1392〜1430)は父とともに舅の上杉禅秀の反乱に加勢しますが、利あらず鎌倉府方に降伏します。
その後、父の後を受けて千葉氏の家督を継ぎますが、わずか4年で急病に倒れました。

兼胤の子が亥鼻城を拠点とする千葉宗家の最後の当主、千葉胤直ですが彼については書き出すと長くなりそうだし、そろそろ千葉氏の列伝紹介も小休止して胤直については改めて近いうちに紹介していきたいと思っています。

千葉貞胤と一族の抗争

千葉貞胤(1291〜1351)は千葉氏の当主として、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争いという激動の時代を生きた武将です。
元弘元年(1331)に始まる元弘の乱では、貞胤は鎌倉幕府軍に加わって京都へ進軍し、後醍醐天皇側との戦闘に参加しています。やがて天皇側が敗れ、天皇も捕らえられて隠岐島に配流となりますが、このとき貞胤は隠岐島までの天皇の護送役をつとめています。

しかし、時代はすでに北条氏が支配する鎌倉幕府を見限っていました。やがて楠木正成らの活躍で天皇方が勢いを盛り返し、再び追討に向かった幕府軍をさんざんに打ち破ります。
そのうち幕府方の武士も次々と幕府を見限って天皇方へ乗り換えていきます。なかでも天皇方追討の総大将として京都に進軍した足利高氏(のちの尊氏)が天皇方についた影響は大きく、京都の六波羅探題は高氏軍の攻撃により滅ぼされます。
それと呼応するかのように関東でも新田義貞が幕府追討の兵を挙げ、関東周辺の御家人たちを動員し、一気に鎌倉を攻撃しました。貞胤も新田軍に呼応して鎌倉攻めに加わりました。
北条一門を中心とした幕府軍も奮戦しましたが新田軍の猛攻の前に敗れ、ついに元弘3年(1333)鎌倉幕府は滅亡します。

そして後醍醐天皇を中心とした建武の新政が始まりますが、武士たちの反感を買い、高氏改め足利尊氏の離反がきっかけであえなく崩壊。南北朝の争いへと突入します。

このとき千葉貞胤は後醍醐天皇方(南朝)につきましたが、いとこの千葉胤貞(名前がひっくり返っているだけなのでなんともややこしい)は尊氏につき、貞胤が京都にとどまっている留守をつき、貞胤の居城亥鼻城を攻めます。貞胤方も応戦し、争いは胤貞の領地である千田庄(千葉県多古町)にまで及びますが、なかなか決着はつきません。
胤貞は父宗胤の弟の子である貞胤が千葉宗家の主となっているのが不満で、本来は自分が千葉宗家を継ぐべき人間であるという思いが強かったようです。貞胤に対する敵対心は並々ならぬものがありました。

関東で貞胤派と胤貞派の争いが続く中、当の貞胤は建武3年(1336)、後醍醐天皇の命により新田義貞に従軍し北陸へと向かいます。
しかしその途中、越前の木の芽峠で吹雪に遭遇し道に迷い進退窮まります。折りしも足利方の斯波高経軍が間近に迫り自刃を覚悟した貞胤ですが、旧知の間柄であった高経のとりなしにより恥をしのんで降伏し足利方に帰順いたしました。その後、新田軍は敗れ、大将の義貞をはじめ多くの武将が命を落としたことを考えると、ここが運命の分かれ道であったといえるでしょう。

貞胤が足利方についたことにより、貞胤を攻める口実を失った千葉胤貞も兵を治め両者は和睦します。胤貞はこの年に病死し、彼の悲願であった千葉宗家奪回の夢は実らず、結局その子孫は九州にとどまることになりました。

その後の貞胤は足利方(北朝)としておおいに活躍します。後世からみればあまりかっこよい身の振り方ではなかったと思いますが、家を守るという意味ではしかたなかったのかもしれませんね。千葉氏は鎌倉幕府に引き続き、室町幕府においてもその存在感をおおいに示すことになっていきます。

宗胤寺と千葉宗胤

千葉都市モノレールの作草部駅から数分、千葉競輪場の北側に宗胤寺というお寺があります。その名の通り、鎌倉時代の千葉氏の嫡流である千葉宗胤が父頼胤をはじめとする元寇による殉難者たちを弔うために建立したと伝えられています。
境内には宗胤の墓碑(供養塔)といわれる五輪塔が建っています。

宗胤寺(千葉宗胤墓2)

宗胤という人物、千葉宗家の長男として生まれながら、宗家の家督を引き継ぐことができず、弟にその座を譲らざるを得なかったという意味で悲運の人といってもよいのかもしれません。
今回はその3人、宗胤と父頼胤、弟の胤宗について触れてみたいと思います。

千葉頼胤(1239〜1275)は前回紹介した千葉時胤の子。父時胤が仁治2年(1241)、24歳の若さで死去したことに伴い、わずかに数え年3歳で家督を継ぎます。
当然ながら幼児の頼胤に政務を執れるわけがなく、成人するまでの間、叔父の千葉泰胤がその代行を務め、一族の千葉六党の面々が後見にあたることになりました。

やがて名実ともに千葉氏の惣領となった頼胤は文永8年(1271)、異国警固番役に任ぜられ九州に赴任します。これは蒙古軍の日本への来襲の懸念が現実味を帯びてきたことにより、九州に所領を持つ御家人たちに警備を命じたものです。千葉氏も肥前国晴気庄(佐賀県小城市)に所領を持っていたため、その対象となったものでした。

文永11年(1274)、ついに蒙古軍が博多湾に来襲します(文永の役)。この戦いで頼胤は日本軍の前線に立って大いに奮戦しますが、蒙古軍の毒矢を受けて負傷してしまいます。
戦いの後、頼胤は所領の晴気庄で傷の回復に努めましたが、効なく翌年この地で亡くなります。

頼胤の死を受けてその翌年、長男の千葉宗胤(1265〜1294)が異国警固番役を引き継ぎ、九州へ下向します。千葉氏の当主の早世が相次ぎ、家督を継いだ年齢がいずれも幼少の頃なんですね。このときの宗胤も数え12歳の少年でした。
蒙古軍の2度目の来襲である弘安の役にも参戦し、自然の助けも受けて蒙古軍を撃退しますが、3度目の来襲をおそれた幕府は彼らの本国への帰還を許可せず、続けて九州の警護にあたらせます。その結果、宗胤は本領の下総へ戻れずこのまま九州の地で生涯をおくることになったようです。

宗胤が不在の間、その留守は弟の千葉胤宗(1268〜1312)が守っていましたが、当主不在という状態が長期にわたることはその家臣団などからも不安の声があがっていました。そのため、いつからかは断定できませんが、実質的に下総を支配していた胤宗が成り行きで千葉介を受け継ぎ、名実ともに千葉氏の当主となったとみられています。
… それにしても兄が宗胤で、弟が胤宗。なんともややこしい限りです。しかも宗胤の子が貞胤、胤宗の子が貞胤だから、ますますややこしや!!

こうして千葉氏の本家は胤宗の系統が引き継ぐことになったのですが、弟が兄を差し置いた形となったことが宗胤の子・胤貞には遺恨となり、胤宗の子・貞胤との南北朝の争いにからんだ抗争につながっていくことになるのでした。

鎌倉幕府と千葉介

巨星・千葉常胤の死後、彼の6人の子供たちの子孫が千葉六党として団結して、千葉一族を支えていきます。今回は常胤の孫、成胤から歴代の千葉氏当主(千葉介)を紹介していきます。

千葉成胤(1155〜1218)
千葉胤正の嫡男。生年については本当にこの年の生まれだとすると、胤正14歳のときの子供ということになり、いくら昔とはいえ早すぎる感じもしますね。また、叔父にあたる国分胤通や東胤頼とはほぼ同じ年ということにもなります。
それはともかく、成胤は早くから祖父常胤、父胤正のもと、ひとかどの武将としての力量を備えていたものと思われ、治承4年(1180)の源頼朝挙兵時から千葉氏の将として活躍します。
ことにその年、常胤らが頼朝を迎えるために留守にした隙をついて、居城の千葉館を襲った平家方の藤原親正を迎え撃ち、親正を捕らえるというはなばなしい功績をあげています。
成胤が千葉氏の家督を継いだのは建仁3年(1203)、父胤正の死後のことです。それ以後、幕府内では権力をめぐる御家人同士の抗争が続き、結果北条氏が執権として幕府の権力を握ります。成胤は北条氏に協力的な立場をとり、建保元年(1213)の和田義盛排斥の際には和田勢の追い落としに力を貸したようです。

千葉胤綱(1208〜1228)
成胤と胤綱の生年が正しいとすれば、胤綱は成胤54歳(以下、年齢は数え年です)の子ということになります。実に遅い嫡男誕生。豊臣秀吉と秀頼みたいです。
そんなわけで父成胤の死を受けて千葉介の家督を継いだのはわずか11歳のときでした。
まだ少年であるにもかかわらず、胤綱は千葉氏の惣領としてその立ち居振る舞いは堂々としたもので、当時の幕府の長老である三浦義村に対してもひるむことなく相対したというエピソードが残されています。
胤綱は承久3年(1221)の承久の乱において、幕府側の大将のひとりとして京都へ進軍し活躍します。若年からのこれまでの功績からおおいに将来を嘱望される存在でしたが、健康にすぐれず安貞2年(1228)、わずか21歳でこの世を去ります。

千葉時胤(1218〜1241)
胤綱には子がなく、弟の時胤が家督を継ぎます。このとき時胤も11歳。一族である千葉六党の面々が若い時胤を補佐して千葉氏を支えていったようです。
時胤の代にはとくに大きなできごとがあったような記録は伝わっていません。彼も兄同様に病弱であったのか、24歳で病死。家督はわずか3歳の嫡男頼胤が受け継ぎます。

つづきは次回に

常胤の子供たち・千葉六党

大日寺の千葉氏16代の墓所を訪れたところで、16代の当主とはそもそもどういう人物だったのかというのが気になりました。

初代常兼、2代常重(実質的には彼が千葉氏初代ですが)、3代常胤についてはすでにこのブログで紹介していますので、その続き、今回は常胤の子息たちについて触れてみようと思います。

さて、千葉氏のカリスマ的存在である千葉常胤は、源頼朝の鎌倉幕府創設に多大なる貢献をしたことで地元房総半島のみならず、東北から九州に至る全国に所領を拡大し、幕府の有力御家人の地位を築き上げました。

常胤には6人の男子がおり、それぞれが常胤に与えられた所領を分割して相続することとなりました。彼らは千葉六党と呼ばれ、一致協力してその後も千葉一族を支えていきます。

千葉胤正(1141〜1203) 長男
常胤の死後、千葉本宗家を継ぎ「千葉介」を称します。常胤が長寿を保ったため、胤正が当主であった期間はわずかに3年くらいでしたが、家督を継ぐ以前から父とともに平家討伐、奥州征伐の戦いに参戦し、大いに活躍したといわれています。

相馬師常(1143〜1205) 二男
常胤から下総相馬郡の所領を与えられます。ここは常胤が頼朝挙兵以前にその所有をめぐって奔走した「相馬御厨」の場所です。頼朝により正式にその所有権を認められたわけですね。師常はまさに千葉一族にとって大切な所領を任せられたわけで、姓も「相馬」を称します。
師常の子孫はやがて今の福島県相馬地方に進出し、戦国大名から江戸幕府下の大名として存続し、明治維新までその地を治めていくこととなります。

武石胤盛(1146〜1215) 三男
在地領主として千葉の武石郷(千葉市花見川区)を治めました。のちに常胤が拝領した東北地方の所領の一部を譲り受け、子孫は千葉を離れてそちらに本拠を構えます。やがて武石氏は伊達氏の一門となり、幕末まで仙台藩の重鎮として活躍していきます。

大須賀胤信(1152〜1220) 四男
彼も在地領主として千葉の多部田郷(千葉市若葉区)を治めていましたが、のちに常胤から大須賀保(千葉県成田市旧大栄町)を譲られそちらを本拠として「大須賀氏」を称します。さらに奥州をはじめ各地の所領を譲り受け、子孫は全国各地で活躍していくこととなります。

国分胤通(1156〜1232) 五男
早くから千葉の国府に近い国分郷(千葉県市川市)を領し姓も「国分」を称します。のちに大戸荘(千葉県香取市)の地頭に任ぜられ、そちらに本拠を移します。子孫はこの地区で千葉本宗家を支えていきます。

東(とう)胤頼(1157〜1228) 六男
頼朝挙兵以前に京都での大番役をつとめ、その帰途に伊豆の頼朝と挙兵に向けての相談を行ったといい、千葉一族あげての頼朝への協力体制がうかがえます。そういう経緯もあってか頼朝からの信頼も絶大で、兄たちをしのぐほどに幕府内では重く用いられたということです。
千葉の東庄(千葉県東庄町)を領したことから「東氏」を称します。
承久の乱ののち子孫は美濃国(岐阜県)にも所領を与えられます。

彼ら6人の一族が千葉一門を盛り立て、その後の北条氏による御家人粛清をも切り抜けて鎌倉幕府中でもその勢力を維持していくのでした。