千葉氏列伝・千葉常重

平常将の子の常長(1024?〜1108?)、孫の常兼(1045?〜1126?)と続く房総平氏は、引き続き房総半島に地盤を構え、その所領を拡大していきます。

常長は源頼義・義家父子に従軍し、前九年の役で活躍したといわれます。詳しい記録はありませんが、その後、上総国大椎(千葉市土気地区)に城を構え、上総・下総両国に所領を広げていったと伝えられています。
宗家を継いだ常兼のほかの常長の子供たちは、それぞれに与えられた所領の地名から白井、相馬、大須賀などの氏を名乗るようになりました。

常兼についても詳しい事績はわかっていませんが、彼も義家にしたがって後三年の役に出兵したと伝えられています。
常兼の代にはさらに房総一円に勢力を広げていったようで、その子供たちは臼井氏、匝瑳氏、海上氏などを名乗っています。

常兼の嫡子が常重(1083?〜1180?)です。常重の代である大治元年(1126)に、居城を大椎から千葉亥鼻に移します。ここに千葉氏が正式に(?)誕生することになります。
常重は亥鼻城下の町の整備に努めました。彼こそ現在の千葉氏の生みの親といってもいいのかもしれません。

この時期とほぼ同じ頃、常重は叔父の相馬常晴から彼の所領である相馬郡(千葉県我孫子市から茨城県取手市周辺を含むあたり)を譲り受けます。それと引き替えに大椎城を含む上総の所領を常晴に譲り渡したものと思われます。と同時に房総平氏の惣領の地位も常晴が握ることになったようで、その後常晴の子孫は上総氏を名乗り房総半島一円を支配した模様です。
当時の力関係から常重の千葉氏一族は傍流に甘んじてしまったようです。

常重は相馬郡の支配を確実にするため、伊勢神宮に所領を寄進します。これにより相馬郡の所領は「相馬御厨(そうまのみくりや)」と呼ばれます。
このようにして所領の保護に努めたにもかかわらず、下総の国司や当時の源氏の棟梁・源義朝らの介入により、相馬御厨の管理権を奪われるなど、その後も所領の保証は不安定なものでした。(このへんいろいろ複雑ないきさつがあるので詳細は省きますが…)
常重の嫡子で千葉氏最大のヒーローともいえる常胤も父とともに所領の確保のために苦労を重ねました。自分たちの所領を守るためには、それを確実に保護してくれる人物・組織が必要であることを痛感した常胤は、やがて義朝の子・頼朝をその存在と見定め、頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の創設に大いに貢献したのでした。

千葉氏列伝・平常将と羽衣の松

前回のエントリーでは、反乱を起こした平忠常についていささか辛口の感想を述べてしまったような気がします。忠常の反乱というのはあくまでも朝廷側から見た位置づけであり、本当のところは重税を取り立て続け、領民を苦しめたといわれる国司側に非があったともいえるかもしれません。
領民の疲弊を憂えた忠常が領民の暮らしを救うべく乱を起こしましたが、長期にわたる戦いに領民たちはますます困窮していったとも考えられます。 領民のためを思って国家に反抗したことが、かえって領民を苦しめている。そんな思いが源頼信との戦いを避けて降伏した背景にはあったのかもしれません。領民の心が忠常から離れてしまったというのは言い過ぎだったかもしれません。

さて前置きはこのぐらいにして、今回は忠常の子・常将(1010?〜1076?)の話です。
常将は忠常の乱では父と行動をともにしましたが、特に罪を許されて房総の地にとどまり、乱により荒廃した土地の復興に力を注ぎます。
はっきりした時期はわかりませんが、上総の大椎(千葉県千葉市)にその拠点を構えたのもこの常将の代あたりかもしれません。(忠常の頃から大椎を拠点にしていたともいわれていますが)
と同時に現在の千葉市の中心地区、のちに拠点を移す亥鼻周辺にも所領を広げたともいわれ、常将をもって千葉氏の初代とされる方もいらっしゃいます。

常将の生涯について詳しいことは不明ですが、源頼信のとりなしで家や所領を安堵された恩義に報い、前九年の役では頼信の子・頼義に従軍し大いに軍功をたてたといわれています。 

<羽衣の松>
羽衣の松



常将にまつわる歴史スポットが、亥鼻城にほど近い千葉県庁構内の公園にある羽衣の松です。
その昔、この地域に千葉(せんよう)のハスの花が咲き乱れる池があり、ある夜半に天女が舞い下りてこの松の枝に羽衣を掛けてハスの花を観賞していました。その様子を見ていた近くに住む老婆が掛けてあった羽衣を奪い、城主の常将に献上しました。
さて、羽衣を奪われて天上に戻れなくなった天女は、やむなく常将の妻となりやがて長男の常長を産みます。その話を伝え聞いた天皇からハスの花にちなむ「千葉」の姓を賜り、常将の代から千葉氏を名乗るようになったということです。あくまでも伝説の世界の話ですが…
現在の松は何代目か不明ですが、昭和60年に新たに植えられたものだそうです

千葉氏列伝 平忠常

平忠常(975?〜1031)は前回紹介した平良文の孫で、千葉氏や上総氏などの房総平氏の直接の祖先にあたります。
この人物、房総半島を中心とする南関東に勢力を持ち、大規模な反乱を引き起こしたことで知られています。

忠常の父が平忠頼(930?〜1018?)。良文の嫡男で、父の所領を受け継いで武蔵国を中心に勢力を広めていったといわれています。詳細は省きますが、その勢力拡大の過程においては同族の平繁盛(良文の兄国香の子で忠頼にはいとこにあたる)との争いが伝えられています。

さて忠常ですが、いつの頃かは定かでないようですが上総介(親王任国につき実質的な国司)に任じられ、それをきっかけに房総地方にその拠点を置くことになったものと推測されます。
残念ながら忠常に関する歴史スポットは皆無に近く、どのあたりに本拠を構えていたのかはよくわかりませんが、下総国相馬郡(千葉県我孫子市、茨城県利根町周辺)周辺が本命ではないかとされております。

上総介を辞した後、在地領主として房総半島に勢力を張った忠常は、長元元年(1028)に国府に対する反乱を起こします。その勢いは房総三国(安房、上総、下総)、今の千葉県全域に広まります。
朝廷からもやはり平氏の一族である平直方(北条氏の祖とされる人物)らを追討使として派遣されますが、反乱は一向に治まらず足かけ4年にまたがりました。
業を煮やした朝廷では、改めて清和源氏の源頼信を追討使に任命します。それを聞いた忠常はなぜか戦うこともなくあっさりと降伏、長元4年(1031)ようやく反乱は終息しました。
忠常は京都に護送される途中、美濃国(岐阜県)にて病死し、首だけが京都へ送られました。

頑強に抵抗を続けていた忠常が、頼信の出動とともにあっけなく降伏したのはなぜか?
2人は以前に戦いを交えたことがあり、敗れた忠常がすでに頼信の家人となっていたためという説もありますが、長期にわたる戦乱で房総半島一帯の耕地がほとんど荒廃してしまい、食料の調達もままならかったため、これ以上戦いを続けるのが不可能になっていたのが本当のところのようです。

こうして忠常の乱は終わりを告げました。これほどの大乱であった割にはその1世紀前ほどに起こった平将門の乱に比べると、歴史的に大きく取り上げられることもなく、将門の人気に比べると忠常の知名度も低いんですよね。思うに最後まで領民から慕われ続けた将門に比べ、忠常の場合はいたずらに戦乱を長引かせるばかりで、かえって領民の暮らしが疲弊してしまい人心が忠常から離れていってしまったのではないでしょうか。その人物が構成の歴史にどう残るかは後の世の評価というものが大きく左右するような気がします。人間的なエピソードや活躍の足跡がほとんど残っていないのも、そんなところからなのかな?