千葉氏列伝・千葉常胤

いよいよ千葉氏最大のヒーロー、千葉常胤(1118〜1201)の登場です。
常胤は源頼朝の平家討伐の旗上げに積極的に協力し、鎌倉幕府の創建に多大なる貢献を果たしました。その功績により、千葉氏を有力な幕府御家人の立場に押し上げるとともに、九州から東北まで全国各地に所領を保有することとなりました。

常胤までの房総平氏は平忠常の「常」の字を諱(いみな)として、代々の当主がその字を名前に含めてきましたが、常胤以降は彼の「胤」の字が代々諱として使われることになります。これなどまさに、常胤という人物が千葉氏の中でも特別の存在であったことをうかがわせる事例といえるでしょう。

常胤は実直で律儀正しい武将であったようで、頼朝からも「第二の父」といわれるくらいに信頼が厚かったようです。
まだ勝算の見込みもたたない頃から頼朝に一族の命運を託してきたわけですから、常胤の協力なくして鎌倉幕府の創建は成し得なかったといってもいいのではないでしょうか。頼朝がいかに常胤を頼りにしていたかわかるような気がします。

頼朝の挙兵までに常胤は自らの所領の支配権をめぐって国家権力の圧力により、苦い思いをさんざんに味わっています。常胤がここまで頼朝に肩入れしたのも、武士の立場に立って自分たちの所領を保証してくれる組織が欲しい、そのリーダーの地位に頼朝についてもらいたいという強い思いがあったからだと思われます。

以下、そんな常胤の生涯をたどってみたいと思います。

■相馬御厨をめぐる所領争い
常胤の前半生は自らの所領をめぐっての権力者との確執日々でした。
常胤が18歳のとき、当時の千葉氏最大の所領であった相馬御厨の下司職(いわゆる管理人ですな)を父常重から受け継ぎます。
この相馬御厨というのは、現在の千葉県我孫子市から柏市を中心に、茨城県南部にまで広がるとする広大な土地です。本拠の千葉からはかなり離れていますが、千葉氏にとってはその所領からの収入もさることながら、先祖の平忠常のころから領有しているということで、思い入れの強い場所であったものと思われます。
ここはとても実入りが多く魅力ある土地だったらしく、その所有を巡って下総国司・藤原親通、源氏の御曹司・源義朝(本来は常胤の所領を保護するべき主家筋なのですが…)、隣国常陸の佐竹義宗など次々とその支配権を強奪しようとする者が現れます。
その都度常胤は国司と掛け合ったり、相馬御厨の寄進先である伊勢神宮にその所有の正当性を訴えたりしますが、最終的には義朝が平治の乱で滅亡したのち、政権を握った平氏の権力を後ろ盾にした佐竹義宗に支配権を奪われてしまいます。常胤は先祖は同じ平氏の出であっても京都で半ば貴族化した平氏一門では、自分たちの所領を保護してはもらえないということを痛感します。
武士の土地を守るためには武士のための組織、政権が必要であるという考えが、このとき彼の心に芽生えたとしても不思議ではありません。それがやがて源頼朝の鎌倉幕府創建への強力な援護につながっていくのでした。

■頼朝の挙兵と鎌倉入り
治承4年(1180)、源頼朝は配流先の伊豆にて平氏に対する反旗をひるがえします。しかし、程なく石橋山の合戦に敗れ、命からがら房総半島へと落ち延びます。頼朝はここで常胤ら房総平氏に協力を求めます。
この時点での頼朝は落ち武者同然。加勢したとしても勝算の見込みなどほとんどたちません。その気になれば逆に頼朝を討ち滅ぼすことくらい容易なものだったでしょう。
しかし常胤は、「このまま平氏の政権が続いても何も変わらない。それならばいっそ頼朝にかけてみたい」と考えたのでしょうか、頼朝の要請を快諾します。(思えば自分の所領を横領した源義朝の子である頼朝に一族の命運を託したというのもおもしろいもの。また平氏の末裔が源氏に味方するというのも皮肉な話)
常胤は、房総半島を北上してきた頼朝と上総国府(千葉県市原市あたり)で合流したといいます。その際、常胤の留守に乗じて下総国司の藤原親政(先に相馬御厨の支配に介入した親通の孫)が千葉に攻め上ってきましたが、常胤の孫、留守を預かっていた成胤の活躍で撃退し、親政を捕らえます。この後、常胤が亥鼻城に頼朝を迎えたかどうかは定かではありませんが、ともに下総国府(千葉県市川市)へ向かいます。この頃には同じ房総平氏の上総広常らも合流し、頼朝軍の勢いは徐々に強大になっていきます。
やがて頼朝は本拠地と定めた鎌倉へ入ります。この鎌倉入りも常胤の進言によるものといわれています。

■平氏追討
頼朝は鎌倉を動かず、京都の情勢を見据えながら、その基盤造りに専念します。これも「じっくりと東国の地盤を固めるべき」という常胤の考えが大きく影響しているようです。
そして寿永2年(1183)の末、満を持して弟の範頼、義経を総大将に西へ向けて兵を差し向けます。 ここから先は有名な話なので、詳細は省きますが、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡するまでの戦いの中で、常胤は総大将のひとり範頼に従い、軍師的な役割を果たします。
一ノ谷の戦いののち、九州方面へ進軍した範頼軍ですが、悪条件が重なりかなりの苦難に陥ります。範頼は兄頼朝へ援助を要請します。頼朝の返事は「できる限りの援助はするので、冷静に行動するように。千葉常胤という立派な人物がそばにいるのだから、よく意見をきくように。」というものでした。(すいません。多少筆者なりに脚色しておりますが…)
温和な性格であったとされる範頼も常胤を信頼し、彼の助言を受け入れながら協力的に行動を進めたようです。個性のぶつかり合いで相容れなかったもうひとりの総大将・義経と軍師・梶原景時との関係とはまるで正反対。あくまでも「もしも…」の話ですが、義経の軍師が常胤であったなら、のちの義経の悲劇はなかったかも!? それとも義経の個性の強さには、さすがの常胤でもさじを投げたでしょうか? 少なくとも頼朝への報告内容は景時のそれとは違うものになっていたかもしれませんね。
義経の大活躍で寿永4年(1185)、平氏一門は長門・壇ノ浦で滅亡します。この結末を引き寄せた要因のひとつには、平氏の退路を断ったという意味で範頼軍による九州制圧が大きく影響しているものと思われます。

■晩年の常胤
平氏滅亡後も常胤は頼朝からの厚い信頼のもとに活躍します。
文治5年(1189)には奥州藤原氏征討の大将の一人として従軍、翌年の頼朝の上洛に際しては、行列の最後尾を受け持ってともに上洛いたします。
常胤は鎌倉幕府創設にむけてのこれまでの活躍が評価され、東北から九州へ至る全国各地に新たに所領を授けられました。房総半島の一武士にすぎなかった千葉氏が幕府の重鎮として大いにその存在感を示すこととなったのです。
常胤は正治3年(1201)、頼朝の死に遅れること2年後に84歳という長寿を全うしました。
彼の築き上げた千葉氏の基盤は揺らぐことなく、北条氏を中心としたその後の御家人同士の勢力争いをも切り抜けて、室町時代までその勢力を保持することとなるのでした。

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