常胤の子供たち・千葉六党

大日寺の千葉氏16代の墓所を訪れたところで、16代の当主とはそもそもどういう人物だったのかというのが気になりました。

初代常兼、2代常重(実質的には彼が千葉氏初代ですが)、3代常胤についてはすでにこのブログで紹介していますので、その続き、今回は常胤の子息たちについて触れてみようと思います。

さて、千葉氏のカリスマ的存在である千葉常胤は、源頼朝の鎌倉幕府創設に多大なる貢献をしたことで地元房総半島のみならず、東北から九州に至る全国に所領を拡大し、幕府の有力御家人の地位を築き上げました。

常胤には6人の男子がおり、それぞれが常胤に与えられた所領を分割して相続することとなりました。彼らは千葉六党と呼ばれ、一致協力してその後も千葉一族を支えていきます。

千葉胤正(1141〜1203) 長男
常胤の死後、千葉本宗家を継ぎ「千葉介」を称します。常胤が長寿を保ったため、胤正が当主であった期間はわずかに3年くらいでしたが、家督を継ぐ以前から父とともに平家討伐、奥州征伐の戦いに参戦し、大いに活躍したといわれています。

相馬師常(1143〜1205) 二男
常胤から下総相馬郡の所領を与えられます。ここは常胤が頼朝挙兵以前にその所有をめぐって奔走した「相馬御厨」の場所です。頼朝により正式にその所有権を認められたわけですね。師常はまさに千葉一族にとって大切な所領を任せられたわけで、姓も「相馬」を称します。
師常の子孫はやがて今の福島県相馬地方に進出し、戦国大名から江戸幕府下の大名として存続し、明治維新までその地を治めていくこととなります。

武石胤盛(1146〜1215) 三男
在地領主として千葉の武石郷(千葉市花見川区)を治めました。のちに常胤が拝領した東北地方の所領の一部を譲り受け、子孫は千葉を離れてそちらに本拠を構えます。やがて武石氏は伊達氏の一門となり、幕末まで仙台藩の重鎮として活躍していきます。

大須賀胤信(1152〜1220) 四男
彼も在地領主として千葉の多部田郷(千葉市若葉区)を治めていましたが、のちに常胤から大須賀保(千葉県成田市旧大栄町)を譲られそちらを本拠として「大須賀氏」を称します。さらに奥州をはじめ各地の所領を譲り受け、子孫は全国各地で活躍していくこととなります。

国分胤通(1156〜1232) 五男
早くから千葉の国府に近い国分郷(千葉県市川市)を領し姓も「国分」を称します。のちに大戸荘(千葉県香取市)の地頭に任ぜられ、そちらに本拠を移します。子孫はこの地区で千葉本宗家を支えていきます。

東(とう)胤頼(1157〜1228) 六男
頼朝挙兵以前に京都での大番役をつとめ、その帰途に伊豆の頼朝と挙兵に向けての相談を行ったといい、千葉一族あげての頼朝への協力体制がうかがえます。そういう経緯もあってか頼朝からの信頼も絶大で、兄たちをしのぐほどに幕府内では重く用いられたということです。
千葉の東庄(千葉県東庄町)を領したことから「東氏」を称します。
承久の乱ののち子孫は美濃国(岐阜県)にも所領を与えられます。

彼ら6人の一族が千葉一門を盛り立て、その後の北条氏による御家人粛清をも切り抜けて鎌倉幕府中でもその勢力を維持していくのでした。

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