巨星・千葉常胤の死後、彼の6人の子供たちの子孫が千葉六党として団結して、千葉一族を支えていきます。今回は常胤の孫、成胤から歴代の千葉氏当主(千葉介)を紹介していきます。
千葉成胤(1155〜1218)
千葉胤正の嫡男。生年については本当にこの年の生まれだとすると、胤正14歳のときの子供ということになり、いくら昔とはいえ早すぎる感じもしますね。また、叔父にあたる国分胤通や東胤頼とはほぼ同じ年ということにもなります。
それはともかく、成胤は早くから祖父常胤、父胤正のもと、ひとかどの武将としての力量を備えていたものと思われ、治承4年(1180)の源頼朝挙兵時から千葉氏の将として活躍します。
ことにその年、常胤らが頼朝を迎えるために留守にした隙をついて、居城の千葉館を襲った平家方の藤原親正を迎え撃ち、親正を捕らえるというはなばなしい功績をあげています。
成胤が千葉氏の家督を継いだのは建仁3年(1203)、父胤正の死後のことです。それ以後、幕府内では権力をめぐる御家人同士の抗争が続き、結果北条氏が執権として幕府の権力を握ります。成胤は北条氏に協力的な立場をとり、建保元年(1213)の和田義盛排斥の際には和田勢の追い落としに力を貸したようです。
千葉胤綱(1208〜1228)
成胤と胤綱の生年が正しいとすれば、胤綱は成胤54歳(以下、年齢は数え年です)の子ということになります。実に遅い嫡男誕生。豊臣秀吉と秀頼みたいです。
そんなわけで父成胤の死を受けて千葉介の家督を継いだのはわずか11歳のときでした。
まだ少年であるにもかかわらず、胤綱は千葉氏の惣領としてその立ち居振る舞いは堂々としたもので、当時の幕府の長老である三浦義村に対してもひるむことなく相対したというエピソードが残されています。
胤綱は承久3年(1221)の承久の乱において、幕府側の大将のひとりとして京都へ進軍し活躍します。若年からのこれまでの功績からおおいに将来を嘱望される存在でしたが、健康にすぐれず安貞2年(1228)、わずか21歳でこの世を去ります。
千葉時胤(1218〜1241)
胤綱には子がなく、弟の時胤が家督を継ぎます。このとき時胤も11歳。一族である千葉六党の面々が若い時胤を補佐して千葉氏を支えていったようです。
時胤の代にはとくに大きなできごとがあったような記録は伝わっていません。彼も兄同様に病弱であったのか、24歳で病死。家督はわずか3歳の嫡男頼胤が受け継ぎます。
つづきは次回に



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