宗胤寺と千葉宗胤

千葉都市モノレールの作草部駅から数分、千葉競輪場の北側に宗胤寺というお寺があります。その名の通り、鎌倉時代の千葉氏の嫡流である千葉宗胤が父頼胤をはじめとする元寇による殉難者たちを弔うために建立したと伝えられています。
境内には宗胤の墓碑(供養塔)といわれる五輪塔が建っています。

宗胤寺(千葉宗胤墓2)

宗胤という人物、千葉宗家の長男として生まれながら、宗家の家督を引き継ぐことができず、弟にその座を譲らざるを得なかったという意味で悲運の人といってもよいのかもしれません。
今回はその3人、宗胤と父頼胤、弟の胤宗について触れてみたいと思います。

千葉頼胤(1239〜1275)は前回紹介した千葉時胤の子。父時胤が仁治2年(1241)、24歳の若さで死去したことに伴い、わずかに数え年3歳で家督を継ぎます。
当然ながら幼児の頼胤に政務を執れるわけがなく、成人するまでの間、叔父の千葉泰胤がその代行を務め、一族の千葉六党の面々が後見にあたることになりました。

やがて名実ともに千葉氏の惣領となった頼胤は文永8年(1271)、異国警固番役に任ぜられ九州に赴任します。これは蒙古軍の日本への来襲の懸念が現実味を帯びてきたことにより、九州に所領を持つ御家人たちに警備を命じたものです。千葉氏も肥前国晴気庄(佐賀県小城市)に所領を持っていたため、その対象となったものでした。

文永11年(1274)、ついに蒙古軍が博多湾に来襲します(文永の役)。この戦いで頼胤は日本軍の前線に立って大いに奮戦しますが、蒙古軍の毒矢を受けて負傷してしまいます。
戦いの後、頼胤は所領の晴気庄で傷の回復に努めましたが、効なく翌年この地で亡くなります。

頼胤の死を受けてその翌年、長男の千葉宗胤(1265〜1294)が異国警固番役を引き継ぎ、九州へ下向します。千葉氏の当主の早世が相次ぎ、家督を継いだ年齢がいずれも幼少の頃なんですね。このときの宗胤も数え12歳の少年でした。
蒙古軍の2度目の来襲である弘安の役にも参戦し、自然の助けも受けて蒙古軍を撃退しますが、3度目の来襲をおそれた幕府は彼らの本国への帰還を許可せず、続けて九州の警護にあたらせます。その結果、宗胤は本領の下総へ戻れずこのまま九州の地で生涯をおくることになったようです。

宗胤が不在の間、その留守は弟の千葉胤宗(1268〜1312)が守っていましたが、当主不在という状態が長期にわたることはその家臣団などからも不安の声があがっていました。そのため、いつからかは断定できませんが、実質的に下総を支配していた胤宗が成り行きで千葉介を受け継ぎ、名実ともに千葉氏の当主となったとみられています。
… それにしても兄が宗胤で、弟が胤宗。なんともややこしい限りです。しかも宗胤の子が貞胤、胤宗の子が貞胤だから、ますますややこしや!!

こうして千葉氏の本家は胤宗の系統が引き継ぐことになったのですが、弟が兄を差し置いた形となったことが宗胤の子・胤貞には遺恨となり、胤宗の子・貞胤との南北朝の争いにからんだ抗争につながっていくことになるのでした。

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